ルールを守らないことの弊害

お説教 - 狂熱の娘団。

この話はとても興味深いものでした。
人と人との関わりが希薄になり、他人への干渉が薄れる。
それによる弊害というのは確実に存在しますが、それを分かりやすく表した良い例だと思います。

例えば、携帯電話がなぜ動作するのか、使う人が機器の仕組みを知らなくても大まかな操作方法(インターフェース)さえ知っていれば操作できる。

コンビニの弁当がどうやって作られてきたか分からないけど、お金さえ払えば空腹を満たすことができる。

世の中は何も知らなくても何でもできる便利な世界になりつつあります。


プログラミング的にも「隠蔽」や「カプセル化」といって、共同作業をする際に相手は自分の作っている中身を知らなくても(意識しなくても)、操作方法だけ教えておけば目的が達成されるという、非常に効率的な作業方法がありますが、それが成り立つのは、予め決められたルールに沿っていることが絶対条件です。

ほんの少しでもルールを守らなければ、それはバグとなって表われますが、プログラミングの場合、コンピューターは嘘をつきませんので、決められたルールに則って作業すれば計算が狂うことは無く、結果的に効率の良い作業につながります。

しかし、人間はそうはいきません。
それは、ルールを守れない場合があるからです。
今も中国食品の問題が大きく取りざたされているように、普段自分達が意識しないところでルールを破られてしまえば、その上に成り立つ全ての物が影響を受け、そのしわ寄せが新たなルール違反へと連鎖する可能性があります。

人が関わる以上、自分達の意識していない世界でルールが守られているという保証は全くありません。
もしかしたら自分の使っている携帯の中身がルール通りに作られておらず、明日突然使えなくなるかもしれません。
いかにルールを守られていないことが他人に迷惑をかけることなのかと理解できるはずです。


話を戻しますが、弘明寺の住職さんが定める、決められたルールを守れれば、豆まきが中止になることは絶対になかったことでしょう。
「警備というのは何があっても安全が守れて当たり前」そんな馬鹿馬鹿しいことはあり得ません。
そこに集まる一人一人が、人がたくさん集まる場所でのルールに則って行動するという前提条件の下ではじめて、警備という仕事が成り立つのです。

しっかりルールが守られているからこそ実現できることがある。
逆に、ルールが守られていなければ当たり前のこともできなくなってしまう。

それはハロプロのイベントでも同じ。
主催者側の責任とは、そこに集まった人たちのルールに則った行動があってこそ成り立つものであり、ルールを逸脱した行為をすればその人の責任。
ルールを守らず計算を狂わす人が多いようであれば「限界を超えている」というのも正論です。

今まで会場責任者の方といろいろ話してきた中でも、あらゆる事柄に対してルールを守られなかったときの二手三手先を考えて、それでも大丈夫と確認された物だけを実行に移すといった、二の足を踏まざるを得ない状況が多いことを何度も耳にしてきました。

住職さんがおっしゃる「何かあれば主催者側の責任が問われる時代になった。事故が起きてからでは遅い」という思いがあれば、なおさら慎重に事を運ぶしかありません。

みんながルールを守らず、責任は主催者が問われる。
これでは本来必要の無いことまで想定せざるを得ない状況で非常に非効率。
その原因を作っているのはルールを守れない自分達なんですね。
二手三手先を考えなくて済むのなら、もっとスピーディーに他の部分でのサービスに注力できるだろうに。


何も知らなくても何でもできる便利な世界の中で、いかに一人一人がルールに則って行動することが大切か、現代の便利は「ルールが守られる」という信頼の上にしか成り立たないと言うことを、あらためて実感しました。


全然まとまらない文章ですが、疲れている頭ではこれが限界なのであまり深く突っ込まないでくださいね(^_^;)

投稿者:misuken 2008年02月01日 01:01

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